三国時代の呉の武将で孫策と孫権に仕える。知略・武略に優れており、その才能は曹操や劉備からも恐れられるほどであった。「美周郎」の異名で呼ばれる程の美男子であり、絶世の美女小喬を妻にもつ。赤壁の戦いでは劉備と協力し、魏の曹操軍を迎撃させた。
三国時代の呉の公主。英雄・劉備の妻である。父は江東の雄・孫堅。兄に孫策と孫権がいるが異母兄妹である。身の回りには常に武装した侍女たちが付き、自身の部屋には武具が飾り立てられていると描かれている。
三国志群雄での最強の男とされている。数十人で万余の敵を撃退する、曹操軍と素手で戦う、戟の要を弓で一発で射抜くなど、正史でも並外れた武勇の人物として描かれている。混乱の中で義父の丁原が中央の権力獲得を図る董卓と衝突すると、董卓から赤兎馬を与えられたのを機に丁原を裏切る。そのまま呂布は董卓へ仕えることになった。やがて、呂布は董卓も裏切り、彼を切り捨て出奔する。
楊貴妃と並び「中国四大美女」といわれている。幼い頃から王允の養女として育つ。董卓の悪政に苦しむ都の状況を打開しようとした王允は、董卓と呂布の仲を裂くべく貂蝉を董卓に差し出す。貂蝉はその美貌と機転を利かし、結果的に彼らを仲違いさせ、呂布が董卓を殺害。
蜀に使えた発明家。あるとき三千振りの刀を鋳造し、諸葛亮に献上した。その製法は、金を溶かして鋳型にするもので、普通のやり方とは全く違っていた。小さな鉄球をつめた竹筒で、試し斬りをすると、なんの手応えもなく、干し草のようにスパッと斬れた。当時としては常識外れの切れ味から、「神刀」と名付けられた。
建安年間の雒陽の名妓で、曹操の侍衛の王図を愛し、王図が法律にひっかかって処刑されかけたときに、自らの命と引き替えに王図を救おうとしたという。
肉屋を営んでいたところに劉備と出会い、関羽と共に桃園の誓いを結ぶ。黄巾討伐から劉備の東征直前まで尽くした猛将。長坂橋で曹操軍を一喝して足止めさせたエピソードが有名。若い頃は酒による失敗で城を失うなど、酒乱で自滅することがたびたびあった。最期は呉への復讐心に燃える暴走が引き金となり、部下に暗殺された。
蜀漢の豪傑将軍・張飛の次女である。関羽の養子である関平とは幼馴染であり、特別な感情を抱いているようだ。
また、趙雲に武芸の手ほどきを受けている。また、守り役である劉禅との関係も深く、周囲からは将来は彼の后になると言われている。
中国後漢末の武将、政治家。詩人、兵法家としても業績を残した。身長は七尺余りとも言われており、当時は1尺23センチ程度だったのでおおよそ161センチくらいである。
若い頃、機知・権謀に富んだが、放蕩を好み素行を治めなかった。しかしその後は董卓・劉焉・袁紹・袁術らのような有力な勢力ではなく、ただ群雄の一人として連戦連勝を重ねてのし上がり、最終的には中国北部全域を支配するまでに勢力を拡大している。
司馬 懿(しば い)は、中国後漢末期から三国時代魏にかけての武将・政治家。魏において功績を立て続けて大権を握り、西晋の礎を築いた人物。
後漢の名将馬援の子孫と称する一族の出身。祖父は馬平(子碩)、父は馬騰。弟に馬休、馬鉄、従弟に馬岱。馬に乗っている間は三国志最強の人物であったとされている。正義正義とむさ苦しさで有名。初陣となった193年長安、董卓派として乱を起こした王方・李蒙を速やかに討ち取った。
馬騰の娘で、馬超の妹。馬騰が曹操に殺害されると、雲騄は復讐の念を燃やし、兄・馬超と共に戦場を駆け巡る。その後、馬超が劉備に帰順すると、劉備の勧めで趙雲と結婚。それ以降は趙雲と共に各地を転戦する。蜀の中国統一後は敦煌公主・揚威将軍に封じられる。